ばいばい、私の神様
櫻井翔くん、39歳のお誕生日おめでとうございます。
もう何度も何度も祝ってきた特別な日。
私はこの日が大好きです。
このことは過去にたくさん話してきたからもう説明は割愛しようかな。
私が38歳の櫻井くんと過ごした1年間について、少しずつ振り返りたいなと思っています。
ここ2年くらい、ブログを更新する頻度が落ちました。
好きな人の好きなところを書き連ねるのはすごく好きなのだけれど、自分のことを書くことに対する苦手意識がずっと拭えなくて。
活動休止の会見があってから、何かを書こうと思っても自分のことを説明してからでないとうまく伝わらないことや自分の感情というフィルターを通さないと書けないことが山ほどあって、それと対峙することから逃げていたのです。
だからここ数年は下書きを書いては消しての繰り返しで気づけばアップしたかった目標日を過ぎていて更新を諦めることばかり。
そんな私ですが”自分のこと、書こうかなあ”と最近思えるようになってきて、少しずつ準備をしています。
まだ記事は上げていないのですが、作ってみました。
Twitterに来るのが少ししんどいかもなって最近感じているので、もしかしたらここでだらだらとお話しているかもしれません。
もしよかったら遊びに来てくださいね。
あらしや櫻井くんの話もたくさんすると思うし、自分の話もざっくばらんにしていこうと思っています。
そんなことは置いておいてですね。
私が逃げてきた”書く”という行為は幼い頃の私にとっては
”自分が唯一持っているもの”であり
”救済”の行為でした。
だけどある時から私にとって言葉や書くことが救済という側面を持ちながらも自分の首を締める呪いのような存在に感じることが多くなりました。
それをはっきりと認識してしまった瞬間から私は思うように文章が書けなくなって、文章を書くのが上手な子というアイデンティティを失うことになるのです。
私にとって行動の指針であり神様だった”言葉”を失ったとき、
次に見つけた神様が櫻井くんでした。
昔ブログに少しだけ書いたことがあるかもしれないけど、私は幼い頃からテレビっ子でジャニーズのアイドルに慣れ親しんできました。
その中でももう好きになってから数年経っていた嵐が、私の次なるアイデンティティに変わっていきました。
”嵐が好きな子”という次なる武器を私は手にしたのです。
私が学校で一番嵐に詳しくて、嵐といえば私でした。
今もそんなに変わらないかもしれない。(笑)
私が嵐をよりどころにした理由はたくさんあるけれど、それはnoteに少しずつ記していけたらなと思います。あまりここで端的に話せるものではない気がするので。
とにかく私の行動の全ての源泉はあらしや櫻井くんで、彼らが真っ当でいてくれたからこそ私は今なんとか普通にしがみついて生きることができています。
なんだかだらだらと綴ってしまいましたが、あるタイミングから私にとって櫻井くんは神様になったということなのです。
櫻井くんはいつでも強くて、明朗快活で、言わずもがな素敵な人です。
私が何より信じている人です。
私はジャニーズのアイドルが大好きで、”アイドル”という概念についてもすごく関心があります。
偶像とか虚像とか、考え始めたらキリがないようなことをずっと考えているのが好きです。
嵐で言うと二宮くんみたいな、わかりやすくアイドルな人のことを考えるのは特に楽しいなあって思います。
だけど、私が好きになったのは櫻井くんでした。
嘘をつくのが苦手であまりにも正直な人。
”アイドルをやっているという意識は持ったことはなくて、とにかく嵐をやっている”
職業:嵐 な、櫻井くん。
ステージに立ってオーラが豹変するようなこともそんなになく、いつも櫻井翔としてそこに在るひと。ステージに立っている櫻井くんの動きに合わせてキラキラした粉が私にはいつも見えていた。櫻井くんは鱗粉とか光の粒が集まってできているのかもしれないと思ったことは一度や二度ではない。
触れたら消えちゃうのに、私の指先にほんのり傷を残していくようなそういう意地悪になりきれないひとだったのは当たっていたね。
(でも今鱗粉の毒について調べたら毒を持つ種類はごく少数で、鱗粉の役割は自分の体に害のある水を弾くこととメスを惹きつけることが主だそう。それはそれでなんだか櫻井くんの掌で転がされてそうでいいかもしれない。)
うまく生きることとか全然考えてなくて、ってか生きるに上手いも下手もあるか?って感じでいつでも泥臭く生きてる櫻井くんが本当に本当に私にとってずっと救いでした。
家柄も、容姿も、教養も、全部うまく生きるために使えるものなのにそれで楽に世を渡っていこうなんて思考が一ミリもなさそうで、しかもちゃんとあんまりうまく生きられてないのにシャカリキでキラキラで楽しそうな櫻井くんが、何にも持ってなくて生きにくくて仕方ない私にはすごくキラキラして映った。
ああいう櫻井くんって、やっぱり虚像とか偶像とかそういう類のものじゃないと思う。
偶像は人間が作ったものに過ぎず、神そのものではないからだそう。
想像すればそこに神様はいるのに、なぜわざわざ偶像などを作る必要があろうかということだ。じゃあそこにいる神様と対話すればいいじゃないという話。
なんか、多分そういうことなんだと思う。
櫻井くんはアイドルっていうかやっぱり神様だったんだ。
去年の嵐ツボでも言われてたよね。
櫻井くんは神様だって。
本当の櫻井くんとか考えるだけ無粋で、私が見ていた櫻井くんが全てなのだ。
ファンに”いつも信じてくれているよね?だから僕も信じています”ってことを伝える人は私は今まで櫻井くん以外出会ったことがない。
それが嘘とか本当とか、アイドルの櫻井くんが言った言葉だからとか考える必要はないのだ。
”嵐の櫻井翔”は神様なので。
感じたことが全てだし正解なのである。
ジャニー喜多川という人間が作り出した偶像は広く流通しているけれど、その中から私は”本物”を見つけ出してしまった。偶像の顔して本物が混じっているなんて聞いていないぞ!という感じですが、”信じることがすべて”って歌うアイドル、本物以外あり得ないでしょう。。
とまあ他人に伝わるのか伝わらないのか非常に微妙なぼんやりとした話を展開していますが、アイドルにはアイドルじゃないプライベートな瞬間がどこかにあって。アイドルの中の人の生い立ちや感情があって。それがアイドルとしてその人がどう生きていくことにつながったのか考えることが楽しいということもすごくわかる。
だけど嵐の櫻井翔って嵐じゃない櫻井翔として生きてる瞬間が嵐になったその時からないんですよ。アイドルじゃなくて嵐なので。
だから多分、神様になれたんだなって思う。
そんな無敵で絶対に揺らぐことのない神様だと思っていた櫻井くんが、やっぱり生身の人間だということを痛感する一年だった。
38歳の櫻井くんはいつも泣いていたなって思う。
涙こそ流れていなくても、いつも泣いていた。
櫻井くんは確かに最強なんだけど、しぬほど強がりでもある。
だからいつも強がっていた。
5人でいると誰よりもケラケラ楽しそうに笑ってる顔や声が大好きだった。
だけど最近の櫻井くんはいろんな気持ちをぐっと飲み込んで5人でいられる時間を噛み締めて、愛しんで、慈しんでいるような柔和な笑顔をニコニコと浮かべることが多くなった。
泣いてるみたいだなって、いつも思っていた。
櫻井くんはお兄ちゃん気質で、つよがりで、わがままを言わないひと。
その目が精一杯に”まだ終わりたくない〜〜〜〜!”と訴えていても、それに心で抗ってきた姿。
多分櫻井くんは自分のコンプレックスをバネにしたり、他人に馬鹿にされた悔しさを昇華させたりして今まで生きてきた人で。
他者を意識して、向き合うことはすごく得意だけれど自分の中で相反する感情と向き合う経験はあまりしてこなかったのだと思う。そもそも自分の中で矛盾する感情に目も向ける暇がないまま求められたことややりたいことを”とにかくやる”を続けてきた人だから。
だから自分の中で終わるなら綺麗に幕引きをしたい、どでかいことをやりたい、だけど寂しい、まだまだやりたいという思いがあることを自覚した時にどう処理したらいいのか戸惑って自分でもよくわかっていないし考えないようにしていると瞳を彷徨わせた櫻井くんを思い出す。
櫻井くんはものすごくしっかりしているのに、しているからこそ、あどけない子供みたいに意固地になるときがある。
櫻井くんの話を聞いていると、”会えなくなると絆は多少なりとも薄まる”という考え方を感じる。蓄積してきた関係性や心のつながりがあってもなお、会えなくなれば途切れるものでしょう?という感じが根底にあるのかなあと思う。
大野さんは多分、”会えなくてもずっとつながっているという確信があることが絆”という考え方なのだと思う。嵐に対する考え方の根底は同じなのにやまは全然アプローチが違うのが面白いなっていつも思うのだけれど、Voyageを見て強く感じたことの一つ。
大野さんはリミットが近づくにつれて絆を確信できたから不安げな顔を見せなくなったのだろうし、櫻井くんは寂しげな顔を隠せなくなっていったのかなと思う。
いつも櫻井くんの輪郭がゆらゆらと揺れて、はっきりしたりぼやけたりを繰り返していた1年間だった。
多分、さよならするための時間だったんだなって今は思う。
オトノハの言葉にいつも救われることに変わりはなかったけど、見てようちの櫻井くんはいつでも最強なの!と言いながら音楽番組を見ることはあまりできなかった。
「なんでそんな顔して歌うの?」が口癖だったな。
もっと褒めてあげたらよかった。
セクゾが5人に戻った日のMUSIC DAYの曲振りする櫻井くんの顔も声色もしんど過ぎて泣き喚いたり、櫻井くんの司会をさとしが褒めてくれなかったって泣き喚いたり。
なんか共鳴して一緒に不安定だった。
とにかく、いつもいつも頑張ってる櫻井くんを褒めてあげて欲しかった。
寂しさを飲み込んで笑ってくれる櫻井くんをメンバーが私に見える場所でいたわって欲しかった。
櫻井くんはすぐに大丈夫だよとか、自分はいいよとか言っちゃうけど
「よくないよ!」って言って欲しかった。
「そっか」って、櫻井くんなら大丈夫だなってなって欲しくなかった。
本当の深いところではたくさんいたわり合ってることも、そもそも褒められたりなんかしなくてもメンバーが見てくれているというだけで櫻井くんは満たされていただろうこともわかる。
櫻井くんは見返りとか考えないけどついついお世話焼きたいタイプだから、そういうポジションが”嫌いじゃない”のもわかる。
だけど至れり尽くせりの接待釣りがものすごく楽しくて、大野さんが優しいのよ!ってあんまり嬉しそうにしてる顔を見ると、そういう喜び、もっと知って欲しかったし嬉しそうな顔たくさん見たかったなとも思っちゃう。櫻井くんが求めてるわけじゃないのに欲張りだしわがままだね。
だけどわがまま言わない人だから代わりにわがまま言いたくなっちゃうし、泣かない人だから代わりに泣きたくなっちゃうのよ。
だから38歳の櫻井くんに会ってちゃんと伝えたかったことたくさんあったよ。
褒めたいことも、感謝したいことも、たくさんたくさんあった。
あと、真っ赤に染まるペンライトの海も見せてあげたかった。
最後のあいさつの時も櫻井くんは一番最初だから、いつもドームはまばらな赤。
星みたいに綺麗なペンライトの海が、一人ひとりの意思で真っ赤に染まるところを見て欲しかった。それを見てどんな顔をするのか、どんな言葉をくれるのか想像するのが好きだった。
ここまで考えたときに気づいた。
私は今まで神様の櫻井くんには求めてばっかりだった。
”たくさん夢を見せて欲しい”
”私のメッセージ見て欲しい”
”またその言葉で救って欲しい”
”私の夢を預けたい”
”まだ見ぬ景色を一緒に見たい”
”ステージ上終身雇用、ちゃんと叶えて欲しい”
まだまだあるけど、私は櫻井くんに求めてばっかりだったしたくさん自分なりに向き合ってきたつもりではいるけど求めた分の愛でちゃんと返してあげられていたとは思えない。
なのにずっと櫻井くんは私を救ってくれたし無償の愛も優しさも夢も希望も幸せも、全部全部くれた。
それがこの一年を経て
”してあげたい”
”そうなってほしい”
と思うことが多くなった。
知らぬ間に私は一人の人間としての櫻井翔さんを愛する準備を整えていたのだなと思う。
結果として最後に会えた日になったアニバーサリーツアーで嵐の櫻井くんに伝えたいことをぎゅっと詰め込んだうちわを見てもらえたことも区切りになったかもしれない。
だから私は2020年の後半ちょっぴり嫌な嵐のおたくになっていたと思う。その自覚もあったからあまりTwitterには来られなかった。
嵐に戻ってきてほしいと思う気持ちはめちゃくちゃあるけど、戻ってこなくてもまあいいかなと思うようになってきている私がいる。
もちろん、櫻井くんが嵐やりたい!というのはわかっているし、そもそも嵐というグループが大好きだから、多分泣いて喜ぶけど。
でも、もう一度嵐になるということはもう一度いつか嵐が終わるということだから。
また櫻井くんがしんどい思いをすることになる。
だからファンが待っているから活動再開しましょう、じゃなくてそろそろ5人でなんかやりたくない?って戻ってきてほしいなって思う。一日限りのとか、そういうやつでもいいのかななんて、昔の私じゃ考えられないようなことも思っている。
だけど活動再開の鍵を握っているのが大野さんだけではないと櫻井くんが言ったように、日々を過ごしていくうちに変わっていくものってあるから。
櫻井くんの心のある方に進んでいってほしいなと思う。
櫻井くんが嵐としての自覚が芽生えた瞬間と言っているのは、ファーストコンサート。
あらしー!って初めて手を繋いだとき。
あのとき櫻井くんは涙を流して、そこから私の神様は生まれた。
コンサートで俺らの名前はなんだ〜?のあと、「あらしー!」って言うのは、実は櫻井くんだけ。
他のメンバーはファンの声にじっと耳を傾けて嬉しそうな表情を浮かべていて、櫻井くんだけがメンバーと手をつなぎながらファンと一緒に「あらしー!」って楽しそうに毎年言ってた。
櫻井くんは今回のコンサートで、5人で手を繋いだとき、綺麗な涙を一粒流した。
思えば「あらしー!」って言わなかったコンサートは初めてだったね。
やっと泣けてよかったと思った。しかもそれが、さとしから見えなくて良かったとも思った。
手を繋ぐメンバーを慈しむように見守って、堪えて堪えてそれでも溢れ出ちゃった一粒が、本当に綺麗でいじらしくて櫻井くんだなあって思った。
強がりがばれてるのに強がろうとする最強な櫻井くんが、大好きだった。
ライブ中ずっと泣き出しそうでドキドキしていたから、最後光に溶けていく前にグッて笑って見せたとき、最後まで負けたな〜この人に!と悔しくなってしまった。
私が信じていた神様はやっぱりキラキラした粉でできてたから光の中に溶けていってしまったし、本質に少し手がかすったら消えてしまった。私の指先はほんのり熱を持っていて、それは多分いつか冷めて元どおりになるけれど、あの感覚を忘れることはないと思う。嵐の櫻井翔くんは鱗粉みたいな人だった。
私が最後に見た神様は、キラキラ大好きな顔で笑っていたよ。
ありがとう、だいすきな人。
ばいばい、私の神様。
あの4日後に見た櫻井くんの顔はこわばっていて、いつもみたいに笑えてなくて、見ていてつらくて泣いた。
嵐の話をするときだけふっと口角を緩ませていたけれど、数日前まで見ていた嵐の話をしている櫻井くんの顔とは違うと思った。
どの番組を見ても櫻井くんのつられて楽しくなってくる笑い声が足りない、どん臭い櫻井くんをフォローしたり辛辣な一言を放って「おぉ〜い!(アクリル板猫パンチ)」させる声が足りない、と寂しくなる。
今はまだ番組を見るぞ〜!とは前向きになれなくて、番組をやっている時間に思い出したらテレビをつける生活。信じられないのだけれど、あんなに習慣づいていた木曜や土曜も、うっかり忘れてしまうことがある。思い出してもリモコンを取る気力がどうしても起きない時もある。
元々私は心が健やかなタイプじゃないから、突然神様を失って心がびっくりして対応中なのだと思う。
だけど誰よりも幸せになってほしいと思うし、自分のために生きて自分のために時間を使ってほしいと思う。
誰かのために何かをやりたいという思いが嵐を引き寄せるのならば、他人本意で優しすぎる人たちばかりだから多分いつかは集まれるような気がする。
だから、今の時間を目一杯自分のために使ってほしい。
たくさん愛してくれた分だけ、いやそれ以上に、たくさんたくさん愛されてほしい。
私はこれから、好きな人を応援して生きていく。
自分の神様を信じるのではない。
自分のために櫻井くんを信じて生きてきたけどきっと他に見落としてきた自分のためにできたことがあったと思う。それをちゃんと自分と向き合って見つけて行かなくちゃと思う。
またいつか神様に会える日が来るとしたら、
「私は私なりにあなたにもらったもので頑張ってきたよ」って、
「それなりにちゃんと幸せだったよ」って
お互い歳取りましたなあって笑い合いたいなって思うから。
今はまだうまく立ち直れてなくてそんなにすぐに前を向くことはできないけど。
せっかく沢山のものをせがんでもらって来たんだから、そのもらって来たもので頑張れなくちゃダサいなと思う。そしてまた会えたときに大きな愛で返せるように、ちゃんと大好きな人と一緒に生きて行かなくちゃね。がんばるよ。
ばいばい、私の神様。
21年間、幸せだったかな。
楽しかったかな。
そうだったらいいな。
私の全部だったから、思い出してはぐずぐずすると思うけど、
もう少ししたらしゃんとするので許してね。見守っていてね。
またいつか、会えたらいいな。
21年間お疲れ様。
私の大好きな人、これからよろしくね。
うまく付き合う方法をこれから見つけていきたいと思っているよ。
沢山愛されて沢山幸せになってね。
笑顔で溢れる39歳にしてね、しようね。
知っているようで知らないことが沢山あるから一つずつ知っていけたらいいなって思っているよ。
改めて、39歳のお誕生日おめでとう。
ずっとずっとありがとう。
これから一人で戦うことになると思う。
一緒に戦ってあげることはできないけど、ずっと応援しているから。
一人じゃないってことを知っておいてね。
ていうか一人になんてさせないので覚悟しておいてください。(笑)
ずっとはないなんて悲観的になったこともあったけどやっぱり信じさせてください。
ずっと大好きです。
嵐の櫻井くんも、これからの櫻井くんも。